「英語教育のエビデンス」って何だろう。学校現場の視点から

2021年12月8日水曜日

コラム 読みました




 「英語教育のエビデンス:これからの英語教育研究のために」を読んでいます。

まだ読み終わっていないのですが、自らの忘備録・リーディングレスポンスとして、高校英語教員の経験を振り返りながら、考えたことを書いていこうと思います。

なぜ「エビデンス」について知っておいた方が良いのか

なぜ英語教師が「エビデンス」についての理解を持ち、「リサーチ」についてのリテラシーを高めておいた方がよいのか。本書は以下の2点を挙げています。

  1. 「何らかの『エビデンス』を根拠として提示される教育政策の妥当性を判断するため」(p. iv) 
  2. 指導内容・指導法を検討する際、「派手な謳い文句や表面的な成果に惑わされるのではなく、示された『エビデンス』の質を十分吟味し、自らの抱える文脈において、様々な条件と選択肢の組み合わせの中でそれが最善であると納得した上でその選択をするため」(p. v)

1はトップダウンで教員に降りかかってくる政策、それに基づく悉皆研修、現場でのカリキュラムマネジメントに関連しています。

2については、悉皆研修に加え、教育民間企業主催の研修(明日から使える〇〇、SLAから学ぶ〇〇などといった研修チラシは学校にたくさん送られてきます。)、さらには教材選定などにも関わってきます。

これは、教師が自らの教育実践をどう考え、どう実行し、どう判断するかという主体性の根幹を支える非常に大切なスキルだと考えます。

エビデンスに基づいた教育を行うためにエビデンスを学ぶのだ、というわけでは必ずしもありません。

エビデンスを複眼的、理論的に捉えることで、さまざまな教育言説について主体的に妥当な判断を下せるようにする、ということだと思います。

この視点は教員のプロフェッショナル・デベロップメントという観点から非常に大切だと感じます。(現在は、教員を政策のブローカーとして捉えるトップダウンの研修体系(カスケード研修)が主流ですが、教員・生徒の認知・理論・経験を主体として捉えるティーチャー/スチューデント・ファーストの研修の必要性をとても強く感じます。)

英語の教育現場でのキーフレーズ

というのも、英語の教育現場はさまざまな先進的なキーフレーズが一人歩きする傾向、無批判に受け入れられる傾向、あるいは形骸化する傾向があるのではないでしょうか。

評価の枠組みでは「Can-doリスト」や「観点別評価」。

指導法では「オールイングリッシュ」、「CLIL」、「アクティブ・ラーニング」、「〇〇システム・〇〇メソッド」などです。

そういったキーワード、キーフレーズに沿った指導法・教材が現場に降りてくる時、どのように語られ、推進されていくのか。エビデンスの観点から見ると問題がある指導法・教材も少なくありません。そういった語りにたいして教師がどのように判断を下し、自らの教授を方向づけていくか。

この点は、第二章で論じられている(不確かな)因果関係に基づいたエビデンス (p. 33)、エビデンスのつまみ食い (p. 34)の説明が参考になります。


「英語教育のエビデンス」って何?

英語教育において、「エビデンス」とは何なのか。「エビデンス」の質をどう判断すればよいのか。第5章にそれらの答えに辿り着くためのヒントが書かれていました。

第5章の結びでは、医療と教育の違いを論じながら、EBM(エビデンスに基づく医療)の方法論を英語教育の文脈にそのまま取り入れるのは生産的でないと結論づけています。そして、学際的に方法論を検討し、最終的には「自前の基準を構築していく必要」(p. 95)があると結んでいます。

日本の英語教育において、今後もっとも必要となってくるのは、この「自前の基準を構築」するプロセスだと考えます(量的な大規模調査でも事例研究でも)。

「物差し」がなければエビデンスを議論することはできません。また、問題がある「物差し」で測られたデータをエビデンスと呼ぶことは難しいです。借り物の「物差し」を使って、測られる事象の複雑さを切り捨て、無理やり測ろうとすることは可能ですが、それをエビデンスと呼んでいいのかと言われれば疑問が残ります。

「英語教育のエビデンスとは何なのか」への答えは、「物差し」に関する、what, how, whyにあるのではないでしょうか。英語教育研究は、「研究の質を評価するガイドラインが発展していない」(p. 34)という指摘も踏まえ、エビデンスへの態度を自ら(借り物でなく)言語化していく必要があるのではないでしょうか。

これは、「英語教育が(多様な)社会の中で行われる」ことに由来していると考えます(SLAや英語授業学の文脈で考えれば)。

教室の中の教師と生徒は、教室外の社会から切り離された存在ではありません。教室内の誰もが、多様で複数にまたがる小さな社会(クラス・部活・友人グループ・塾・スポーツクラブ・趣味サークル・アルバイト・インターネットでのコミュニティなど)に身を置きながら、自らの立ち位置をその都度調整しており、教室はそうした小さな社会と地続きになっています。言い換えれば、教室という空間は、個人が持つ複数のアイデンティティが「学び」を通して交差(交錯)する場所です。

教室で教えている「英語教員」はただの無味乾燥な「英語教員」のわけがありません。生徒にとっては、同時に「クラス担任」だったり、「部活の顧問」だったり、いつも相談に行く「進路担当」、「カウンセラー」かもしれません。

目の前にいる「英語教員」は20分前の休み時間に雑談を楽しんだ相手かもしれないし、昨日の昼休みに文化祭の書類の不備について理不尽に咎められた相手かもしれない。

目の前にいる「生徒」は塾で文法をドリルを使って明示的に学習している学習者かもしれないし、プロを目指して、クラブで朝晩練習に忙しいサッカー選手かもしれない。

昨晩のLINEのやりとりで嫌な思いをした生徒かもしれない。そのLINEの相手が授業のグループワークのメンバーかもしれない。(教員はこうした複雑な状況を、しばしば「教師力」や「人間力」と呼ばれるようなソフトスキルを使って、生徒と対話を通して人間関係を育みながら、授業をより良いものに転化させているように思えます。)

データをエビデンスとして提示する時だけ、教室を他の社会から切り離したり、教師や生徒の他のアイデンティティを考慮しないのはフェアなのか。ふさわしい「物差し」が使えているのか。どのようにすれば教室で起こっていることをより良いエビデンスとして扱えるのか。

分かっているのは、エビデンスを論じるには、良い「物差し」が必要であること。「物差し」はさまざまな形が測定対象や目的に応じて存在し、場合によっては自ら作っていかなければいけないこと。そして、哲学(ものの捉え方)と理論的枠組みをもとに「物差し」は作られるのであり、エビデンスを議論するには、そうした物差しの作成過程の理解が肝要であること。

これらのことは、今後しっかり勉強していきたいと思います。(ここまで書いてきて、基準に対する「物差し」というメタファーは相応しくないのではという気がしてきました。決して平面的、数値的という意味ではなく、事象をうまく捉え、議論をするための暫定ルールブック的なものです。ものを見る時のメガネ的なものといってもいいかもしれません。そして、この議論は英語教育という文脈である以上、教員と生徒がどう事象を理論化しているかの理解が不可欠です。)

最後に、最近読んだ論文からの二節を引用します。教員が「エビデンス」をどう捉え、どう自らの教育実践に結びつけるのか。研究者に「良いエビデンス」と暫定的に認められた理論や方法論に対してどう向き合うべきなのか。エビデンスの議論で、なにか抜け落ちている視点はないか。自分へのリマインドとして。

The suggestion that teaching should become an evidence-based profession where teachers need to act on the basis of evidence about “what works” – and further, should only act on the basis of such evidence – is perhaps the final nail in the coffin of teaching as an act of emancipation rather than an act of domestication. (Biesta et al., 2020, p. 455)

Reclaim a practically meaningful, intellectually rigorous and politically astute conception of teaching. As a result of global trends and developments and deliberate policy interventions, teaching has become increasingly redefined as a technical operation aimed at the effective production of measurable learning outcomes. (Biesta et al., 2020, p. 457)

 <引用文献> 

亘理陽一・草薙邦広・寺沢拓敬・浦野 研・工藤洋路・酒井英樹 (2021). 『英語教育のエビデンスこれからの英語教育研究のために』研究社.

 

Biesta, G., Takayama, K., Kettle, M., & Heimans, S. (2020). Teacher education between principle, politics, and practice: A statement from the new editors of the Asia-pacific Journal of Teacher Education. Asia-Pacific Journal of Teacher Education, 48(5), 455-459. https://doi.org/10.1080/1359866X.2020.1818485






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Ryosuke Aoyama

2007-2021年まで公立高校英語教員。現在はブリティッシュコロンビア大学のTESL博士課程に在籍しています。


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